マイストーリー

ピアノを習い始める前に指を大怪我からのスタート

母の実家の熊本で生まれて父の待つ北海道での生活が始まる。
一つ上の姉が5歳でピアノを習い始め、バスを2つ乗り継ぎ母とともに姉のレッスンにくっついて行く。
母は、私も5歳になったらピアノを習わせようと考えていた。
そんなある日、事故が起こった。
姉の友達が止めた自転車のペダルを回し、そこに姉とお砂を入れて遊んでいた。
砂が散らばるのが面白かったのだ。
私はよそ見をした。
その瞬間指が回っている車輪に触れたのだ。
私の左手人差し指の先端が吹っ飛んだ。
慌てて駆け付けた母が吹っ飛んだ指を探したがどこに行ったか見つけることはできなかった。
幸い爪の付け根が残っていたので爪が生えてきたが鳥の口ばしのようになった。
何度か手術をして少しはましな形にはなったが当然指は短いし爪先が下を向いている。
でも母はあきらめずに私が5歳になったらピアノを習わせてくれた。
今の私があるのは母のお陰と感謝している。  

いろんな先生との出会いに感謝

1、2年の担任の塚野先生はとても厳しく怖かった。
引っ込み思案の私は、授業ではいつも「当たりませんように・・・」と願っていたものだった。
そんな怖い先生だったが、朝の会で毎日いろんな歌を歌うときに「弘子ちゃん弾いて」といつもそう言って毎朝ピアノを弾かされていた。
それは私にとってとても嬉しい事だった。
音楽が私の自信となったのは、塚野先生のお陰かもしれない。
小学校の頃の私は、いつも学校の帰り道では、空を見ながら歌を作って歌い、家に帰れば好き勝手にメロディーを奏でそれに伴奏をつけて弾くことを楽しんでいた。
このことが今の私へと大いに繋がっていく。
その頃、我が家は先生を自宅にお呼びして、他の生徒も通ってくる1日だけピアノ教室となっていた。
その先生からはソルフェジュ、調音などの手ほどきを受ける。
その後、先生が辞めることになり、私は近くの音大に行っている姉妹のところに通うようになる。
とても怖いお姉さま方だったが楽典も調音もしっかりと教えてもらった。

引っ込み思案からの脱皮

中学に上がり引っ込み思案な自分を少しずつ変えていける友達と巡り合ったことと、小学5年生から習っていた英語が得意だったことから、徐々にいろんなことに意欲的になり、他の教科も成績も上がって、いろんなことに自信もついて積極的になっていった。
私は、小学校の頃からピアノの先生になりたかったので(ピアノが弾ければみんな先生になれると思っていた)、中学に上がったころから母の勧めで音高に行くことを決め、音高の先生にレッスンを受けることとなる。
調音と楽典は、地元の短大に行っていた先生に習い、晴れて音高に入学! 
そこで私は初めて声楽というものに出会う。

高校生活の始まり

小学校の低学年までは母の姿が見えないととても不安になってめそめそしていた私が、初めて親元を離れ寮生活をする。
音高に入って衝撃を受けたことは、ピアノ科で入った人たちが今までも何時間もの練習をしていたということだ。
自分はピアノ科で入ったにも関わらず、練習時間がみんなの半分にも満たなかったからだ。
寮生活では毎日夕食後に学校のレッスン室や他の教室に行って3時間ほど練習するのが当たり前になった。
高校2年の時、ピアノ科でこのまま進むのをあきらめる決断をする。
幼少の頃の指の怪我から10年以上経っていたが、冬になると痛みが出るし、鍵盤と鍵盤の間に爪がひっかかった時は爪がはがれたのではないかと思うくらいの激痛を何度も味わう。
難易度が増すにつれ指の短さなどが影響していった。
そして、一番の理由は、声楽の成績の方がずっと良かったこともあり、声楽科に転科し定期演奏会と卒業演奏会に出ることとなった。
これで声楽で受験と思った矢先に先生の産休により、「産休中は先生の自宅でレッスン」と「学校では代わりの先生のレッスン」となる。
それまでの先生には、「あなたはメゾソプラノ」と言われ中声用の楽譜で歌っていたが代行の先生は、「あなたはソプラノだから高声の楽譜を用意しなさい」と言われ、二人の先生の間でどうすべきなのかもがき苦しんでいた。
その頃の私には先生にそれを言うことも相談することもできないまま不安な気持ちで受験。
そんなどっちつかずの状態では第一志望の東京には行けず、地元の札幌大谷短大の音楽科の声楽コースに入学することとなる。

短大での挫折と貴重な体験

入学後にさらなる問題が発生する。
激しい鼻炎で幾つもの耳鼻科にいっても鼻づまりが解消されず、思うような声が出ないし息も続かない。
声楽家としては不遇の時代を過ごすことなるが、それとは別に合唱が短大時代を豊かなものとしてくれた。
当時、札幌大谷短大の合唱サークルの「輪声会」は全国大会でいつも賞を取る有名大学だった。
そんなに合唱が好きだったわけではないけど、冷やかし程度に友人と見学に行ったが逆に強い勧誘に負け入団することとなる。
輪声会では、小学校に呼ばれて歌う、札幌とアルバータ州の姉妹都市の式典に呼ばれて歌うなどの経験とともに、大人の方との交渉打ち合わせ、バスなどの手配、合宿所の手配などの仕事も経験したことは、その後の人生で役に立っている。
また素晴らしい宍戸吾郎先生という指導者に恵まれたお陰で、「夏の思い出」などの作曲家”中田喜直先生”と「いぬのおまわりさん」や「さっちゃん」などの作曲家”大中恩先生”から直々に指導していただきながら、先生方の女声合唱曲をレコーディングしたことは貴重な体験である。
また、シャンソン歌手の金子由香利さんと故仲代圭吾(俳優故仲代達也さんの弟)のディナーショーでバックコーラスをさせてもらった。いろんな経験をさせてもらえた二年間だった。
卒業後ヤマハシステム講師として3年間勤め、楽器店のピアノ講師と自宅でピアノレッスンをしながらヤマハのグレードの試験官も務める。
自衛隊の町で、自衛隊の駐屯地が3つもあったことから、縁あって自衛隊の音楽隊の試験の伴奏も経験する。
結婚して栃木に引っ越し、子供が3歳になった時に社宅を出て家を建てたのを機にピアノ教室を再開する 20年前、皇族の愛子さまがリトミックを始めたニュースを機にリトミックブームが起き、ちょうどその3年前からリトミックを学んでいたことから市の講座でリトミックを教え始める。
その後、国際ライセンスを持つ先生にリトミックの手解きを受け、現在は幼稚園会場で4~6歳までの子供のリトミック教室を主宰。
自宅ピアノ生徒のほとんどはリトミックを終えた生徒が通っている。
リトミックでは、子どもたちの動きや様子を見てピアノを変えなければいけないので、既成曲はあまり使わず、即興で弾くことが多い。
これは、私の得意としていることで、子どもの頃の好き勝手に弾いていたこととつながっている。

冠婚葬祭会場での経験

ご葬儀の場で、故人がお好きだった曲などのリクエストを頂き、開式までのBGMと式中のあらゆる場面に応じた演奏をするお仕事。
これは、当然結婚式などのように十分に準備できるものではなく、前日か又は直前に4~5曲リクエストを頂き弾かなければならない。
ここでも即興演奏と初見力などが武器となった。
ブライダルでは聖歌隊とオルガンの二刀流をこなす。

認知症音楽ケアとの出会い

5年前、これからはシニア対象に音楽で何かしたいと思っていた時に「認知症予防音楽ケア体操」という講座を見つけ受講し、市の講座の認知症音楽ケアの講座を開く。
奇しくもその頃、実家の父が急に認知症になり、遠く離れていることもあり何もしてあげることができなかった。
また認知症音楽ケアの講座を開くも、内容に行き詰まりを感じ、認知症のことを全く知らずして、「これがいい」「あれがいい」といっても説得力がないと思うようになり、両親が認知症になったこと、離れて暮らす息子達に迷惑をかけない老後を見据えて、3年前より認知症改善実績を上げているところでセミナーを受け「認知症リハビリテーション専門士」の資格を取得 。
認知症になる方を減らしたいという思いから、「認知症予防音楽ケア体操」の講座では、運動のみならず、「食」「心」「内臓治療」「認知症にならない体のケア方法」など指導している。